珠玉ピックアップ
「童子」7月号 「珠玉童子」より (選句・鑑賞/辻 桃子)
 

  黄緑をこぼしたやうや蕗の薹         安部元気

 残雪を掻き分けて早春の蕗が芽を出す。白の上に点々と黄緑に、まるで絵の具をぽたぽたこぼしたように。北国の遅い春をこんなに単純に簡単に言い表せるとは。

 

  お揃ひの手拭の行く祭かな          夏秋明子

  お揃いの手拭、それがまず目に飛び込んでくる。むろん揃いの浴衣に半纏、白足袋。足元は草鞋だろうか。他は全部省略して、揃いの手拭が揃って「行く」。これこそ祭の本意だ。

  古庭の山吹好きと言ひ遺し          藤野靖也

  長く連れ添ったその人が、ある日、忽然と居なくなってしまう。何ということだ。この悲しみ、この悲憤。言葉もない。でも古女房は山吹が好きと言っていた。庭にはそこだけ灯のともったような黄が、はらはらと散っている。この句によって、この山吹の素朴なかわいらしさが永遠のものになった。

  

  連々と大陸の血や春手套           草野ぐり

  日本人でありながら「大連や新京など大陸で生まれた人はどこか違う」という話を聞いたことがある。そんな荒っぽいところのある、かつての満州生まれの人なのだろうか。ひろやかで物事にこだわらないが大雑把、その血が自分の中にも流れていると感じたのだ。たまたま優雅な春の手袋をはめながら。下五の「春手套」が一篇の私小説を読んだかのように説得力があって不思議だ。

  まあ坊と妙ちやん幹事花の下         山本多岐兵衛

 「童子」の人口に膾炙している句に、〈康雄がな夜店に茂子連れてつた 橋本命綱〉 というのがある。この句を口にしては、その度に笑い合うのだが、それはたいがい六十代か七十代の俳人である。五十代にはもうピンとこない。「この康雄と茂子」という名前がいかにも戦中、戦後の名だ。まだ学校で女の子と二人で夜店などに行ってはいかんと言われていた時代の、十代の少年少女の密かな楽しみを言い当てている。我ら七十代は懐かしさに身も世もなくしびれてしまう。といっても名前入りの俳句は難しい。「みいちゃん」「ちこちゃん」などは、その愛情過多にはげんなりする。掲句の「まあ坊と妙ちやん」にはうなった。幼ななじみか昔の同級生の花見にちがいない。いまだに「ちゃん付け」で呼びあっている老いた面々で、今年は「まあ坊と妙ちやん」が幹事だ。すごく仲がよいが、何も起こらない親しさで、例年のごとく花見だ。惜しむらくは原句が「花の宴」だったことだ。これではホテルの宴会のようだ。「花筵」にしてもよい。

  涅槃図に父似の人を見つけたる        吉井未知

 涅槃図には、五百羅漢のような僧が数多描かれ、それぞれが思い思いの姿で泣いている。その中に、ああ、父に似ていると思う人を見つけた。衣もはだけて悲嘆にくれている。作者には、あの日、あの時の父の姿と重なって見えたのだ。

  待ちをるや桜吹雪のその中に         宮口とりむ

 思わずかけ寄ったのだろう。遅れてしまって、あの人を待たせて待たせて、待っている人の心を思って、もう飛ぶような思いで、ようやくにたどり着いたのだ。こんなに時間が過ぎてしまったのに、その人はじっと立ち尽くして待っていてくれた。吹雪のように散りしきる桜の中に、幻のように。

  己が身を入れて穴掘る春の畑         あさみ岬

 大きな穴だ。畑のごみ穴だろう。地表からはもうスコップが届かず、自分が中に入って一心に土を掘っては投げ捨てる。ふと気がつくと、すっぽりと穴の中に。まるで墓穴のようだと、一瞬、感じただろうか。「春駘蕩」ののどかさを大きく裏切ってドキリとさせられる。

  吟行は長靴がよし紫木蓮           江頭 蓬

 句の中に「句帖」「句会」「吟行」などを読み込んでも、佳句にはなりにくい。だがこの句には目を瞠った。そうだ、吟行は長靴だ。雨が降っても行くのだ、という根性が伝わってくる。紫木蓮のあの押しの強い花も効いている。

  笹起きて鯉の甘露煮旨く炊き         上原和沙

 鯉濃(こいこく)だ。味濃く甘く炊くのは難しい。長い冬が果て、笹は残雪の中に起き上がり、人は精力をつけるのだ。「笹起きて」が動かない。


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