「童子」2月号 「珠玉童子」より (選句・鑑賞/辻 桃子) |
北山の時雨を松乃鰻寮へ 安部元気 八年前、波多野爽波の墓参り吟行をした。その時の句だ。墓がある京都郊外の円通寺のそばまで来ると急に時雨れてきたのを鮮やかに思い出す。先日、如月真菜の「にほの浜句会」八名が「松乃鰻寮」に吟行したそうだ。今月はその時の佳句に注目した。 |
革手套鰻と染めしのれん撥ね 北山日路地 「鰻」と染め抜いたのれんがはらりと撥ね上がって、客が入ってゆく。その瞬間、撥ね上げた手に目が行った。ぴっちりと革手袋をはめた手だ。 |
絨毯を踏みつつ鰻屋の奥へ 北山日路地 鰻屋といってもそこらの町の店ではない。奥へ奥へと朱の絨毯が敷いてあるのだ。静けさが漂う。 |
鰻待ち紅葉の遅き話など 如月真菜 鰻はなかなか出てこない。遠く目をやれば紅葉の遅い山々が見える。比叡山だ。 |
比叡かな松乃鰻寮の障子あけ 石井みや この句は以前の元気さんの句と同じ時の作だが、時を越えててまるで一緒に吟行しているかのようだ。 |
この店が行きつけだった爽波の話も出たのだろう。爽波は家居は一生和服で通した人だ。編集のために写した神戸在住当時の一葉にも、浜崎素粒子と編集長友岡子郷は背広なのに、真ん中の爽波は和服で懐手をしている。冬羽織の季題がぴたりだ。 |
爽波が心不全で亡くなったのは平成三年(一九九一年)。六十八歳だった。かつての吟行時、元気さんはちょうど没年と同じ歳だったのだ。いま日路地さんがその年になった。 |
素粒子さんは若い時分から「ホトトギス」で、「青」立ち上げを共にされ、「青」では爽波に師事し、そして別れた。余人には伺い知れない深い思いがこみ上げてきたのだろう。 |
〈鰻食ふ楽しみ後に円通寺〉という句もあったと思うが、手近の本の中にそれが今は見つからない。 |
むろんこれは、ようやく出てきた鰻重の塗り物の蓋だ。 |
「童子」三十一周年大会二日目、厳島吟行での句だ。鹿がかすれたような声で鳴くとき、潮は引ききって、大鳥居の根もとまで見えてきた。平家の栄華は満潮に達し、そうして引ききったのだと、私には感じられた。 |
鹿は表情の乏しい顔だが、その目は平家の栄華も滅亡も見てきた。そしてどこまでも静かだ。何も変わらない。 |
声朗々と壇ノ浦の段を読んでいる。八百余年の後に。金屏風が動かない。 |
「七五三」の句は難しい。みなきらびやかな子どもたち目が行って同じような句になる。作者は古いアルバムを開いているのだ。そこには昔愛らしい姿で七五三を祝っている妹が写っている。その妹が逝ってしまった。なんというせつない七五三だろう。 |