珠玉ピックアップ
「童子」11月号 「珠玉童子」より (選句・鑑賞/辻 桃子)
 

  スワンボートおまへと乗るのだけは嫌   小川春休

 スワンボートに乗ろうと仲間達とやってきた。いざ乗るとなったら、「おまへ」だけは嫌だ、と。我儘な作者だ。こんなことを言う奴は嫌われる。だが、俳句は我儘な方が愉快だ。「童子」のみんな、お利口さんに句を作っているのでは?みんな揃って我儘な句を作ろう。

 

  端居してははあと気付き爽波の句     前 壽人

 波多野爽波先生はよく、「俳句を作るには『縁側の精神』が大切だとおっしゃった。「縁側」というものは、日本家屋の一部だが、ここは家の中ではないし、かといって、家の外というわけでもない。最も日本の文化を象徴している部分だ。ここに座って、家の中を感じながら、庭を見る、という姿が、日本の文化には通底している。これはそのまま俳句にも通じている。そうやって縁側に座すことを大切にして俳句を作るのが「縁側の精神」だというのだ。この論でゆけば
  家中の声聞き分けて椿かな 爽波
という句は、よく理解できるのではないだろうか。これは、爽波が谷崎潤一郎を読んでいた証だと私は思う。谷崎の「陰翳礼讃」には、家の中の陰の暗さと、外の明るさ、光の両方の継ぎ目、あるいは分かれ目に縁側があると書かれている。そうすると、「縁側の精神」はもっと深く理解することができるだろう。目と体と感覚を存分に働かせ、見えない背後の家の中の人物の動きや気配などを背にとらえつつ、自然を客観写生すべきなのだ。この句の作者も、ようやくそのことに気づいた。縁側に端居して、ははあ、と。

  遺されし母の硯を洗ひけり          百目鬼強

 「残されし母」かと読んだ。早くに先立たれたのかと。いや、「残されし、母の硯」と読んでみた。その方が思いが濃い。母の思いではなく、「残された硯」の思いが、硯という物に託されて直に伝わってくる。書を愛した母の、母に愛されて残された淋しい硯だ。受身形は月並な句になりやすいので避けるようにしているが、この句は成功した。洗っている作者も「残されたもの」なのだ。

  冷蔵庫あければ眼鏡なぜここに      ひろおかいつか

 ある日、私の眼鏡も失くなくなってしまった。半日あれこれ捜してもどうしても無い。あきらめて翌日、洗濯物を取り入れて畳んで仕舞った。箪笥を開けると、下着と一緒にきちんと眼鏡が仕舞ってあった。

  

  海藻のにほひのしたる海霧(じり)来たる     山岡蟻人

 じっとり重い海霧だ。今日は海藻の匂いがする。海辺に住んでいる人にしかわからないせつなさを感じる。

  新米にすばやく水の濁りけり         松本てふこ

 透きとおる新米。聖なる御食(みけ)も、磨けば即濁る。てふこの最高作だ。鋭い客観写生でありながら肉の襞に食いいる。

  風呂敷に教科書包む秋出水         田中たみ

 大人は通帳や印鑑。子供は教科書。この具体性が恐い。 〈旱星避難用意はできゐしに 桃子〉

  羅のまま避難所にたどり着き         浅利重信

 もう命辛々。羅だけど。それからどうするのだ…。     〈黙すなり出水の後の大旱 桃子〉

  秋立つや地震の記事ある方丈記      空野草子

 「方丈記」の頃も地震、津波、大水が。

  気の塞ぐこともなけれど秋の暮        関口登志

 それにしても秋の暮。季節は冬へ、人生は下り坂。

  つくづくと八十年の裸かな           中西若葉

 「裸かな」の決めが凄い。嗚呼。


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