珠玉ピックアップ
「童子」3月号 「珠玉童子」より (選句・鑑賞/辻 桃子)
 

  いつぞやも京に会ひしよ春火桶        如月真菜

 いつかも京都でお会いしましたね、と春火桶の辺で言葉を交わしている。火桶の古めかしさが京の古い寺の奥座敷かとおもわせる。めったに会わないのだが、心のどこかで親愛の情を抱いていたのだろう。といって、今回も急に親しくなってしまうという展開はなく、きっとさりげなく別れるのだろうと思わせるのは、その短い出会いに置かれたのが春火桶だからだ。燃え上がったりはせず、ほのかに炭が匂い、埋火のような温もりが残る。季題の据え方が鮮やかだ
 

  何時ぞや何時ぞや芭蕉の言ひし蕪村の忌   佐藤明彦

 現代語なら〈「何時ぞや何時ぞや」芭蕉の言ひし蕪村の忌〉となる。伝統的な俳句表現ではカギカッコは使わないので、初心者にはわかりにくいが、たくさん句を読んでいるとわかってくる。「『あれは、いつのことだったか、いつだったか』と芭蕉先生がおっしゃっていた」と書いている蕪村の、その亡くなった日だなあ、と佐藤明彦が感慨にふけっているのである。蕪村は芭蕉を尊敬していた。明彦は芭蕉、蕪村を尊敬しているのだ。

  坂上り切れば墓なり枯れの中         安部元気

 坂を上ってきた。長い坂だ。ようやく上が見えてきた。上りきるとそこは墓。見渡せばあたり一面ただ枯れ。呆然として、作者の人生がここで終わったかの感がある。「墓」と「枯れ」と句は即きすぎだが、この句はこの即きすぎが呆然とした読みをさそいだす。

  この人もわが毛皮襟ぢつと見し        岡田四庵

 通りかかる人が、どの人もじっと見る。我をではない。我がコートの襟を、だ。いま、コートの襟に贅沢に毛皮がついているのは珍しくないから、よっぽど変わった動物の毛皮か。狼の毛皮だとか。それともよっぽど擦り切れているのか。どちらにせよ、そんな一瞬の人の動きをとらえた写生が凄い。

  冴ゆる夜や硯の水に目の映り         田村三合

 硯の海に水を入れて、さて炭を磨ろうというときだ。ふとみると硯の水に吾が目が。ぎょっとしたその瞬間、さっと冴ゆる夜を感じる。
  

  絵の中の灯台照らす冬の夜          渡辺一穂

 厳しい寒さの冬の夜だ。町の灯りも見えない真夜。絵に描かれた灯台が暗い海を照らしている。絵の中の灯台の光ががまるで作者の居るところまで届いて、作者を照らしているかのような。私は今月の「桃子草子」に「スーホの白い馬」のことを書いたが、絵本の絵にもそういう力がある。

  大島の触はれば破れてちやんちやんこ   明石倫子

 私は昔着ていた着物の布で、黒田こよみさんに小物入れを作ってもらっている。美しく出来上がった小物入れを見て、「うれしいわ、ずっと大事に使います」というと、「それがね、絹物は案外擦れに弱いのよ」とこよみさんは言う。そうかな、と思ったのに、三年四年と使い込むと、果して糸が擦れてきてしまった。また作ってもらおう。掲句の大島は、明治以来百年も着られてきたものだろう。それを直してちやんちやんこ。もう、さわっただけでに破れてしまう。仕方ない。小さく切って小物入れにするか。昔から日本の女はそうして一枚の布を大切にしてきた。

  受け皿に溢れる酒や去年今年        村田青風

 年の酒だ。おーっ、とっとっと、と升に口を近づける作者が見える。升を溢れて受け皿にこぼれる透きとおった酒。それはまるで去年を今年へと悠久に流れ続ける時間そのもののような。

  鍋磨く窓に小雪よ初雪よ            松並さつき

 一心に鍋を磨いてた。ふと物音に目をやると、厨の窓に小雪が飛んでいる。小雪よ初雪よのリフレインに、こどものうな嬉しさと驚きが出た。

  比良山も伊吹も雪や鳰(にお)の湖      豊田のびる

 鳰の湖、鳰の海と呼ばれる琵琶湖を囲む比良山と伊吹山。今日はどちらも真白な雪。三つの地名がこの豊かな湖の歴史を思わせる。

  冬薔薇やボーンチャイナのかけらめき    山本七月

 骨灰と土で焼いた骨灰磁器(ボーンチャイナ)。花弁がまるでその薄い磁器のような。

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