「童子」 9月号 「珠玉童子」より (選句・鑑賞/辻 桃子) |
太宰忌の胸の谷間の涙とや 舟まどひ 太宰の小説に、作者の妻らしい女が「私の胸のお乳房とお乳房の間に、涙の谷があるの」というようなことを言うくだりがあった。こんなに愛している妻をほったらかしにして、あなたは別の女を愛している。この涙の谷は涸れることがないわ、と伝えたかったのだろう。でも太宰は愛する妻ではなく、一緒に死んでくれる女をさがしていた。心中してはじめて、太宰の心の渇きは癒されたのだろう。 太宰忌の墓に刻まれ施主美知子 由紀ねね 太宰のかかわった多くの女たちの二番目の妻、この妻のお蔭で太宰は立ち直り、多くの作品を残したかに思えたが、やはり深く傷ついていた。一緒に死んでくれるほど愛してくれる人を探し求めていた。子供の母親にそれは望めない。だが、太宰の墓には、彼をもっとも愛した妻の名が残った。 灰色の蟹田の海や桜桃忌 石郷岡芽里 蟹田は津軽湾沿いの町。冬は鉛色の海が広がっている。太宰の小説「津軽」は、友人のいる蟹田を経て、乳母のたけに会いに行く話だ。ふるさとの津軽で太宰は、乳母のたけの他には誰にも愛されなかったと思い込んでいたが、ひさびさにあった運動会の日に、そのたけにも裏切られたと感じた。もう死ぬしかないと思ったのだろう。すべてに「ではグッドバイ、絶望するな」と言い残して。 皮うすくメロンを切つてゐる妻よ 佐藤泰彦 一瞬、太宰の作品「走れメロス」を思った。メロスではなく「メロンをむく妻」。この皮の薄さに愛憎が伝わって来る。 |
草の中より掬ひたる螢かな 石川 妙 太宰は一緒に死んでくれる女に出会ってしまった。闇夜の草の中の一匹の螢のような。 消えたれば跡形もなき螢かな 白井薔薇 螢が消えればあとは闇だけ。恋もまた。だが、太宰が願っていたのは消えやすい恋などではない。永遠に一緒にいるための情死だった。 髪洗ふ先の先まで悔しくて 田村乙女 太宰の心中をきいて、太宰の妻の心はこんなだったろうか。 水無月を涙につつまれて目玉 小川春休 六月十三日、太宰忌。梅雨季。日本中、身体じゅう、目の玉までが湿って。あふれれば涙という。 生臭き運河を渡り太宰の忌 夏秋明子 |
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